重松清『疾走(上)(下)』を読みました。僕はこの小説を夢中になって読みました。上巻を1週間で読み終わり、そのまま読むことを止めることができず、昨日から今日にかけて一夜漬けで下巻を一気に読んでしまいました。
この本は「重い」「暗い」「救いがない」など言われていますが、そんな「言葉」では表せないものがあります。
↓↓↓↓以下ネタバレを含みます↓↓↓↓
この物語は人間の内臓を見るようにグロテスクな作品でした。描写の意味も少しありますが、何よりも心的な面でグロテスクな作品だと思います。
この本を読むと、人間の闇というものを見てしまいます。人間は闇を内面に潜ませている、そしてそれは当人が意識せずに、どろどろと流れて出てきてしまうものなのだと思います。
作品の中心のテーマは何なのだろうと考えたとき、いじめが生む悲惨な結果や、生命の尊さなどではなく、それは“にんげん”への「涙」とか、「祈り」、それと「つながり」だと思います。
結末、シュウジは自ら求めた「つながり」のために、死んでしまう。これは悲劇なのか?「つながり」を持って死ぬことができた…と肯定的に捉えるか、悲劇として否定的に捉えるか、僕は前者だと思う。
考えさせられることが多すぎて、まとまった文章がかけそうにもない。以下、雑然とすることを恐れずに思ったことを書いてみる。
「言葉」はいつから生まれたのだろう?…と思う。考えてみたら宇宙の誕生よりも言葉の誕生のほうが、よっぽど不思議な気がする。物語で宮原雄二は「言葉がつながりを生む」「言葉がなければ苦しむことはない」と言う。そうなのだろうか?言葉の無いところの僕らの感情なんて考えることができない。
地域の、ご近所の温かい関わりがなくなってきた。…とノスタルジーに浸る文章を見かけることがあるが、この本を読んで、本当に地域は温かかったのだろうか?と疑問を感じた。地域で密接なかかわりが生まれるほど、「よそもの」を排除する傾向は強まる。「温かい関わり」って何なんだろう?
「祈ること」と「宗教」というのは必ずしも結びついたものではないと思った。無宗教でも何かに祈ることはあると思う。そして、この「祈る」という行為は論理的には何の意味もないのだけれど、なぜか重要なことのような気がしてならない。
この物語は人間の内臓を見るようにグロテスクな作品でした。描写の意味も少しありますが、何よりも心的な面でグロテスクな作品だと思います。
この本を読むと、人間の闇というものを見てしまいます。人間は闇を内面に潜ませている、そしてそれは当人が意識せずに、どろどろと流れて出てきてしまうものなのだと思います。
作品の中心のテーマは何なのだろうと考えたとき、いじめが生む悲惨な結果や、生命の尊さなどではなく、それは“にんげん”への「涙」とか、「祈り」、それと「つながり」だと思います。
結末、シュウジは自ら求めた「つながり」のために、死んでしまう。これは悲劇なのか?「つながり」を持って死ぬことができた…と肯定的に捉えるか、悲劇として否定的に捉えるか、僕は前者だと思う。
考えさせられることが多すぎて、まとまった文章がかけそうにもない。以下、雑然とすることを恐れずに思ったことを書いてみる。
「言葉」はいつから生まれたのだろう?…と思う。考えてみたら宇宙の誕生よりも言葉の誕生のほうが、よっぽど不思議な気がする。物語で宮原雄二は「言葉がつながりを生む」「言葉がなければ苦しむことはない」と言う。そうなのだろうか?言葉の無いところの僕らの感情なんて考えることができない。
地域の、ご近所の温かい関わりがなくなってきた。…とノスタルジーに浸る文章を見かけることがあるが、この本を読んで、本当に地域は温かかったのだろうか?と疑問を感じた。地域で密接なかかわりが生まれるほど、「よそもの」を排除する傾向は強まる。「温かい関わり」って何なんだろう?
「祈ること」と「宗教」というのは必ずしも結びついたものではないと思った。無宗教でも何かに祈ることはあると思う。そして、この「祈る」という行為は論理的には何の意味もないのだけれど、なぜか重要なことのような気がしてならない。
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