世の中なんでも、わかりやすくないし、どれだけ説明されても理解なんてできない。

でも、あいまいなことを「書いていく」ことで、なにかが見つけられたらいいなって、そうおもってやってます。

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2010年11月26日金曜日

工場

『新潮』11月号に掲載の小山田浩子「工場」を読みました。第42回新潮新人賞受賞作です。


通常、「工場」というと、消しゴム工場だったり、人体模型工場だったり、「OO工場」というように表わされるであろう。しかし、この作品では工場はあくまでも工場、それでいて物凄く規模がでかい。巨大すぎてそれは町と読んだほうがいいような気もするくらい。


この作品は確かに魅力がある。しかし、その魅力がどんなものかと訊かれると少し困ってしまう。もしかしたら「働く」という営みの“あいまいさ”にあるのかもしれない。


自分にとって労働・社会・企業とはなんだろうか?事実、僕がいなくなったって社会も経済も回る。僕の場合だけじゃなくて、これは誰だって同じだ。例えばビル・ゲイツがいなくなったとしたら、それなりに影響はするだろうが、その位置も誰かが埋めることになるだろう。じゃあ、僕らが当たり前のようにしている、この営みって何なの?―と思えてくる。何なの??


「何なの??」と思えてしまうような営みに、結局は多くの人が打ち込んだり、愚痴を言いながらも続けたりしている。でもそれが普通なんだ。この作品の主人公は「普通」にはなれずに行き場を失った。彼女の兄は仕事の作業の無意味さを感じながらも、妹のいる兄という責任感や持ち前の真面目さで向上心を失わずにいることができた。「屋上緑化」の古笛さんは長いこと「工場勤務」だが、無意味と思える作業もコケへの興味によって持続可能なものとなった。しかし、彼女は「普通」になれない、適応ができない。途中に登場する3匹の不思議な生き物も何だか様々な人を象徴しているように思えた。

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