世の中なんでも、わかりやすくないし、どれだけ説明されても理解なんてできない。

でも、あいまいなことを「書いていく」ことで、なにかが見つけられたらいいなって、そうおもってやってます。

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2010年7月16日金曜日

退屈力

(この文章は7月8日から9日に書かれた)

前回に引き続き、わが師である齋藤 孝の著作『退屈力』を読みました。本の内容は現代の社会を「高度刺激社会」と批判して、退屈の中から「技」や「意義」を見い出す力、「退屈力」の必要性を説いています。


この人自身も「高度刺激社会」に「○○力」という流行を作り出し、それを利用したような本を出しているじゃないかという“あげあし”はひとまず置いておきます。


「退屈力」は物事に対して「楽しむ力」であり、「忍耐力」でもあると思います。わかりやすくいうと、部活。僕が高校のときに、よく言われていたのは受験勉強で遅れをとっていたとしても、部活を頑張ってきた人はうまくいくということでした。これを「退屈力」の観点で見ることができます。部活という退屈ともいえる毎日の辛いサイクルが、受験勉強に耐え得るだけの力、齋藤 孝の言う「退屈力」を鍛えていたのかもしれません。

とはいえ、大学生をすでに2年半も退屈することなく過ごしてきた僕が退屈へ身を投じることは、とてもしんどいことです。でも、その「退屈」な作業なくして、大きな躍進は望めないかもしれないと感じました。一般化して言えば、僕は現在、歴史を研究する学科に属しており、卒論に向けて研究テーマを絞るという作業に着手しなければいけません。しかし、やらなければならないとは思っていますが、やりたくない気持ちが大半を占めています。そもそも歴史自体が嫌いなのではないかと疑うほどです。大学入る前のやる気は皆無です…。

やりたくなったら、必要に迫られたら、本気でやればいい…というのは簡単だけど、それでは質の高い論文は書けない。歴史研究は付け焼刃ではできないのです。やりたくないけど、やったほうがいいと思う、という理由で夏休みも歴史研究のために大学に通おうと思っています。退屈に身を投じて「知」の世界に達したい。


さて本書を読んで、(“本書”というよりは齋藤孝のどの本にも共通して書かれていることですが)特に僕が考えたことは ①知識について ②「技」化について です。

①について、知識を求めずに生きていくということは、自分の体臭を気にせずに生活するということに例えることができると思います。自分の立場からみると、体臭には「慣れている」ために異変は感じないし、何も悪いことはないと思い、楽しく生活しているかもしれません。しかし他人からみれば(特に体臭を克服した人からみれば)その人は、とても臭いのです。

自分では気が付かないで、知らず知らずに迷惑をかけている。そして、その人が幸福だと思っていたとしても、自分の異臭に慣れて生活を送ることが本当に幸福なのか?知識を求めずに生きることが幸福なのか?

現在は多くの人が同じ臭いを発しているため、それに気が付かず、知らずに不幸になっていく傾向にあるのではないでしょうか?僕自身も臭みの抜けない一人の普通の大学生ですが、周りには普通と言う言葉すら当てられないほど臭い人たちはいます。(勿論比喩です)知識のないこと、知識を求めないことを普通にしたくないものです。


②について、「技」化というのは齋藤 孝のよく使う言葉です。彼が言うには、物事の習熟度にはレベルがあって、物事を習熟したといえるレベルを「○○の技化」と表現しています。わかりやすい例えをあげるなら自転車です。自転車に乗れる人は意識しないでも転ぶことは殆どありません。この「意識しないでもできるレベル」に達しなければ習得ではないのです。いかに自分のためになることを「技化」していくか、また「自分のためになること」とは何か?…というのが現在の僕の課題です。


読了期間 7/8→7/9
評価 ★★★☆☆

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