世の中なんでも、わかりやすくないし、どれだけ説明されても理解なんてできない。

でも、あいまいなことを「書いていく」ことで、なにかが見つけられたらいいなって、そうおもってやってます。

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2011年6月26日日曜日

出口の現代文レベル別問題集5【上級編】

『出口の現代文レベル別問題集5【上級編】』を読みました、というか解きました。

大学四年生のくせに、いったいコイツは何をしているんだ?…と言いたくなるかもしれません。でも現代文の問題集を解くのってすごくおもしろいので、私は30代になっても続けたいなと思っています。現代文問題集を解くのはお得だと思います。理由を三つ上げてみましょう。

(1)読解力が鍛えられる。

(2)自分の嫌いな文章も読むことができる。

(3)知識が増える。

(1)について、本を読んでいれば自然と読解力は鍛えられるもの…とは言っても自分が本当に論理的に文章を読むことができているのか確かめる方法ってあまりない。問題集をやってみると理解度が点数になって表れるし、自分の間違った読み方を直すことができる。

(2)について、自分が読む本は自分が選ぶために、好きなジャンルに偏りがち。どんなに偏らないように意識しても無意識に避けているような本はあると思う。問題集では様々な作家が様々なテーマの文章を書いている。そのため、自分の興味を広げるきっかけになる。

(3)について、様々なテーマの文章を読むということは、その知識がつくということ。さらに問題集には漢字問題や文学史の問題もある。問われる知識も基本的なことが多いため、日常生活でも(例えばペンで漢字を書くとき)その知識は役に立つ。

 

【ちなみにこの問題集の目次と要約】

西尾幹二『思索する行為』
西洋の時間観念が過去から未来へと流れていく直線的な形式を取るのに対して、日本の時間観念は一瞬一瞬それ自体として完結したものが永遠に循環し続ける。日本は西洋の時間観念に侵食されてしまっている。

池澤夏樹の文章
人間は自然から離れれば離れるほど人間固有の性格を持つようになった。しかし、自然と完全に絶縁しては人間といえど生きてはいけない。そこで「道具」が人間と自然を媒介した。しかし、今や道具は大量生産となり、人間と自然との関係性が危うくなっている。

尼ケ崎彬『日本のレトレック』
レトリックとは言葉を思考に追いつかせるため、文法に逆らってまで正確な表現を目指すことだ。ところが、日本の歌人はそんな問題には留まらず、思考は言葉に追いつくかという問題を見出した。こうしたレトリックは、現代美学・哲学における最先端の問題とつながっている。

日野啓三『夢を食う場所』
都市というものは、マイホームと文化の生活の夢の形に過ぎず、幻想的なものである。無人地帯の荒涼さこそが、この宇宙の本当の姿であるため、私たちの幻想する力が衰えたとき都市は儚く消えてしまうこともあるのだ。

饗庭孝男の文章
井伏鱒二と小林秀雄についての文章。井伏鱒二は『川』において歴史を「第二の自然」つまり必然と捉えた。小林秀雄は「歴史の必然」よりも「歴史の意味」に焦点を合わせた。ここに両者の最も大きい相違があるといえよう。

竹西寛子の文章
役者の喜びが、舞台で幾通りもの人生を生きられることにあるように、平安時代の女房にも「代筆」「代詠」の喜びがあったはずだ。私も、文章を書く際に自分を変えて書く密かな愉しみを見出したことがある。この行動から画期的な自己開発が行われることもあるのだ。

安藤靖彦の文章
三好達治と荻原朔太朗についての文章。朔太郎が「恋を恋する人」で叙情的に、音楽的に歌ったのに対し、三好はそれを母恋いとして受け継ぎ、基地を好み構成を重んずる知的方法で表現した。

唐木順三『科学者の社会的責任についての覚書』
1、人間が最初に「便利な」道具を使った瞬間から人間の心は平常では居られなくなった。より便利なものを求める機心(たくらむ心)が生じてしまった。だから老子は最初から機会を拒もうとしたのだ。
2、かつて科学者は自然や対象に距離を置き、主と客を厳密に区別していた。しかし、人gンはあくまで自然の一部であって、自然科学は人間と自然の相互作用の一部となったのだ。

京極純一『文明の作法』
「名声」は専門家の評価による実像であり、それが利用者によって増幅されると「評判」となり、やがて爆発的に広まると「人気」という虚像になる。これがマス・メディアによって生産されると流通範囲が格段と広くなる。

戸川秋骨『活動論』
宇宙や人生の生命とも活動とも言うべき「何か」がそのまま顕れたものを自然という。本来、進歩とはこの流れのことを言うはずで、もし、このエッセンスに従わなければその運動は死んだも同然の無精神の運動である。

本田和子『異文化としての子ども』
「ピーターパン」や「メリーポピンズ」などのように、子どもを子どものまま生き続ける特権を与えるか、「星の王子さま」のように子どものまま死ぬか。そうすることで子どもは永遠となり、「自然のまま生きる子ども」という新しい価値を失わないようにしていたのだ。

埴谷雄高『永生と永死』
イエスの死はキリスト教徒の想像力によって、永遠の生へと逆転した。しかし、過去の裁判には冤罪によって処刑された多くの「準イエス」がいた。彼らの死は逆転することはない永遠の死であり、その無念を拾い上げるには「文学」によるしかない。しかし、文学によって拾い上げるにはあまりに多くの「準イエス」がいることか!

馬場あき子の文章
鬼とは、追いつめられた生活の極限の中で人間たることを捨てた者たちのことで、また、鬼を語る者たちは、鬼となることを一歩踏みとどまった、同じ階級の同じ生活の苦しみを分かち合った者たちだ。「鬼を征伐する」ということは鬼にならなかった者たちが自分を正当化するためである。子どもはその必要がないため、理不尽に征伐される鬼に弱者に対する同情を感じるのだ。

川端康成『ざくろ』

夏目漱石『道草』

 

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